人と生きるという話
久しぶりに同じ習い事をしてた子に会った。
2歳から高校生まで国際交流団体に入っていた。
普段は週一でテューターと呼ばれる先生宅へ行き、英語の歌をうたいながら踊ったり英語劇をやったりする。
中学2年生の時は1ヶ月間ひとりでミシガン州のお宅へホームステイしたり、逆にホストファミリーとしてアジアやヨーロッパの方々を受け入れたりしていた。
その時同じパーティだった友人で、会うのはおそらく12年振りぐらい。
自他ともに認める会話ベタなのでサシで会うことにやや不安があったが、子どもの頃と変わらずケラケラと笑う彼女に構えていた緊張が和らいだ。
最初は名前にちゃん付けをしていたが、名前と全く関係ないあだ名で呼ぶムーブが起きたことを思い出したりした。
わたしはマシュ、彼女はコンちゃんと呼ばれていた。
由来は覚えていない。が、呼んでみるとそのしっくりさがなんだかおかしかった。
わたしの持ってくる蒸しパンがいつも楽しみだったとコンちゃんは言う。
そういえばレンジで作るチョコチップ蒸しパン作りにハマってて、よく持っていってはみんなと分け合っていた。
お迎えを待つ間はみんなで見ていたクイズ番組、コンちゃんはマジカルチェンジがとても強かった。
コンちゃんはそうだったっけ!?と驚きつつ、言われてみれば先生の家でマジカル頭脳パワー見てたねー!と懐かしんでいた。
わたしの覚えてないわたしとコンちゃんの覚えてないコンちゃんをお互いが記憶している。
コンちゃんに会わなければきっとわたしは蒸しパンを作ってたことを忘れたままで、20年以上経っても誰かの記憶に残ってるなんてことも知らないままだった。
出来事として事実であきらかに有なのに、無かったものになってる。
1人では今まで体験した全てを覚えているなんて不可能だが、こうやって人と話すことで思い出を補完し合うというのは継続的な人間関係が苦手なわたしには新鮮な感覚だった。
なるほど。たとえ忘れてしまったとしても、人と話し合って、補って、思い出していけばいいのかと気付いて、なんだかたまらなくなった。
きっと、こういうことなんだろう。人と生きるということは。