ジュブナイルを聞いて思い出した昔の話とこれからの話
ドラマチックアラスカのジュブナイルが配信開始されましたね。
わたしはこんなにも芸術やエンタメを愛し、多くはないにせよ現場へ足を運んだりもするくせに、作り手の思いや意図と違う解釈をすることを申し訳ない・まちがいだと感じてしまうクソつまらない感性の持ち主なので、インタビューなどを読んだら消してしまうかもしれない。
ジャケットを見て、曲を聴いて、歌詞を読んで、そこからふっと浮かび上がった個人の昔話を。
高校3年生。部活を引退し、受験に向けてはじまった夏課外。
座っていた窓際の席とジャケットが重なる。
ジュブナイル歌詞
https://www.uta-net.com/song/273055/
高校2年生の頃、わたしは半分も学校に行っていなかった。
いじめを受けていたわけではないし、落ちこぼれていたわけでもない。
(体育はとても苦手で水泳もマラソンも補習常連だったけど…)
ただ、がやがやした中で会話を聞き取るのが苦手なこととか、話のテンポ感が悪いこととか、そんなのが積み重なって「人がいる」場所がとにかく息苦しくて仕方なくて、週休4日生活をしていた。
3年の頃には毎日登校できるようになったが、休んできた数は取り消せない。
指定校推薦を受ける条件を大幅に超える欠席日数。
大学を受けるなら一般受験しか道はなかった。
勉強は嫌いではないので、夏休みの課外も特に苦ではなかった。
わたしはいわゆる「教室の隅族」だが、窓辺は人気席なのでそれは一軍の人たちのものだった。
夏課外は自由参加だったので人も少なく、よく窓際の席に座っていた。
教室の窓から見える校庭。2年生が部活に励んでいる。
ちょうど代替わりした直後で、はりきる2年生。
同じ高校生なのに、その生き生きとした輝きはわたしの中にまるでない。
去年のわたしは何やってたんだろう…と、虚しくなる。
推薦を逃し、受験勉強をしなければいけないからじゃない。
「高校時代に何も残せなかった」という後悔だった。
中学時代に思い描いていたような青春的思い出も、友人関係も、何も作れなかった。
受験が終わる頃には高校も卒業。
あと半年も先のことなのに、ゴールラインが見えてしまったのだ。
斜に構えているのは楽だ。
似合わないからと予防線をはっておけば、手に入れられなかったものに対しみっともなく執着しないで済む。
そうやって、通り過ぎてきたものがたくさんある。
ここじゃないどこかへ行けるということ。
それはあの頃のわたしの救いであり、願いであり、祈りだった。
ジュブナイルを聞いて、自分の作り上げた枠にとらわれ藻掻いていた頃を思い出した。
タイムリープしてもう一度やり直したとしたら、うまくできるのだろうか。
願い祈った未来とは少し形が違うけれど、自分の生活に満足を見つけられているよ。
死ぬまでには自分の生を許せるようになりたい。